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名鐘をごく間近で見られる貴重な鐘楼。方広寺鐘楼 [鐘楼巡り]

方広寺の鐘楼は
梵鐘にまつわる話が有名であったり(教科書にも載ってる?)
梵鐘が文化財に指定されたりしているにも関わらず
鐘楼に上がって梵鐘を間近で見られるどころか下から覗いたりすることが出来る
よーく考えると とても貴重な鐘楼です。

以前掲載した方広寺の記事がほとんど鐘楼・梵鐘についてだったので
内容がかぶります。


sho-ro-ho-ko-ji_10.jpg
鐘楼へは石段から上がれます。
スロープも設置されています。
お寺の方がいらっしゃればお話を聞くことも出来ます。
※ご志納忘れずに(^_^)

左(南)の方には隣接する『豊国神社』

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どっしりとした安定感ある梵鐘です。


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「国家安康」「君臣豊楽」の文字は撞木側にあります。
家と康を裁ち切ったと家康の怒りを買い豊臣家を滅ぼすきっかけになったという銘文。
たしか教科書にも載っていますよね。

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白く縁取られているのですぐに見つかります。
大坂の陣のきっかけになったわりには壊されずに現在まで遺る貴重な鐘。


hokoji_2014-01_05.jpg
そして鐘楼内部を下から覗くことが出来ます。
覗くどころか下に立つことも出来ます。

淀君の横顔が浮かんでいるそうです。
お寺の方に教えてもらったのですがどこらへんだったかな?

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鐘楼には美しい天井画が描かれています。
方角も示されています。

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方角を合わせようと撮ったわけではないので配置はランダムです。



sho-ro-ho-ko-ji_03.jpg
鐘楼内にはかつてあった大仏(大仏殿)の遺構がいくつか展示されています。
こういったものが収蔵庫にしまわれるでもなく 実際に本物を見ることができるのも方広寺の良さであり貴重なところです。

京都の大仏は何度も災難に遭って現在はありません。
最後の大仏は昭和48(1973)年の火災でなくなったそうです。
案外最近まであったんですね。
でも再建する人はいなかったんですねぇ。
お寺の方とも「〇〇さん(時の総理)くらいが再建してくれたらいいのにねぇ」と話したりしました。
(お寺の方が言ったのではありません)

※本堂にある仏像は1/10サイズで模した大仏なのだそうです。
確証とれていないので削除。



sho-ro-ho-ko-ji_09.jpg
人の大きさと比べてみてください。

梵鐘もこのカップルどころか数組のカップルが余裕で入れそうです (^_^)



鐘楼のサイズは記載しているデータをWeb上では見つけられませんでした。
梵鐘のサイズからいえば知恩院大鐘楼と同じくらいはあると予想されますが
実際見た印象では知恩院と比べてバランスが悪いというか鐘楼自体が小さく感じます。
周囲の風景の影響もあるでしょうし
方広寺の梵鐘の方が知恩院よりも大きい(高さで約1m高い)せいかもしれません。
しかしそうすると方広寺鐘楼の方が大きくないとなりませんが
鐘楼は梵鐘とのバランスで建っている伽藍なので一概に見た目のサイズとは相関が無いのだと思います。

googleマップ上で雑に比べてみたところ
屋根の寸法で知恩院が方広寺の1.5倍近くありました。
機会があればメジャー持って行って実測したいものです (^_^)




ここからは全くの妄想なんですが
先日千利休にまつわる話を聞いている時にふと思ったことがあります。

千利休は最期、豊臣秀吉から切腹を申し渡され自害することになるが
その本当の理由は定かにはなっていない。

千利休の娘を妾に出さなかったせいだとか
家康と密会しているとか
暗殺を企てていただとか
朝鮮出兵を批判しているからとか
諸説こもごもである。

その中でも表向きには
大徳寺三門上にある千利休の立像の下を秀吉が歩くことに立腹したせいだと言う理由になっている。

しかしこの話はあまりにもこじつけがましい。
立像の作者や大徳寺が罰せられたという話も聞かない。
(実際には処罰されていたかもしれないが)

こじつけがましいと思った事で、ある考えがよぎった。

千利休は切腹の1ヶ月前、結果的に最後の茶会に家康を招いていたという。
利休と家康 一対一の茶会だった。
茶会の内容も会話も一切記録が残っていないが
朝鮮出兵やそのほか秀吉に対する疑念を家康に相談なり意見なりしていた可能性も考えられる。


後の世に正確な理由が伝わっていない限り
おそらくこじつけた理由で切腹を申し渡された利休。

というこじつけた理由で滅亡させられた豊臣家。


ひょっとして家康には利休の仇討ちのような気持ちも含まれていたんじゃないかと思った。
こじつけて利休を切腹させた秀吉(豊臣家)を
これまたこじつけで滅ぼすまでに至ったのではないか。。。。

もちろん利休のためだけに一族を滅ぼすなんてことは考えられないし
後に家康は利休の弟子であった古田織部に切腹を申し渡している。


それでもこじつけられた二人の運命を勝手に関連づけて考えてしまった。

以上妄想。


南無阿弥陀仏



寺院名:方広寺
宗派:天台宗
形式:一重、入母屋造、本瓦葺
創建:明治再建 (方広寺創建は文禄4(1595)年)
梵鐘の鋳造時期:慶長19年(1614年)
梵鐘の寸法:高4.2m 口径2.8m 厚27cm 約82.7t

寺内掲示および下記参考サイト参照








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