阿弥陀ヶ峰・豊国廟 2014年1月 [街ブラ+寺社めぐり]
渉成園(しょうせいえん)の縮遠亭(茶室)から
かつて阿弥陀ヶ峰が見えていたということで
調べてみたところ山頂に豊臣秀吉公の墓所があるということだった。
山頂までは石段で登るということで
ちょっと興味が沸いてきました。
阿弥陀ヶ峰へは七条通と東大路通の交差点(丁字路)から向かいます。
右に『智積院』。左に『妙法院門跡』があります。
(※Googleマップで指定できないため豊国廟の手前までです)
通称『女坂』と呼ばれる参道途中には京都女子大や付属校があるため ドキドキします
名前の由来は女子大でしょうが知恩院の男坂・女坂の「緩い方の坂」という意味とは違い それなりの坂です。
10分くらい登ると鳥居へ続く石段が見えてきます。
ここまででも結構歩きました。調べたら500mくらい。
途中『新日吉(いまひえ)神社』があり 参拝もしたのですが今回は割愛させていただきます。
バスの転回場にもなっています。
京都女子大行きのバス(プリンセスライン)があるのでバス利用も便利ですね。
女子率高くて車中はもっとドキドキしそうですが(^_^)
振り返ると街も見えます。
坂の傾斜もおおよそ分かります?
さて、それでは参りましょうか。
ここは太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれており
元々の豊国神社(豊国社)があった場所なのだそうです。
(現在の豊国神社はふもとの方にある)
参道横は駐車場になっています。
控えのバスも止まっています。
手水舎ですが
水はありません。
あとで神職さんに聞いたのですがこの つくばい は数少ない創建当時のものだということです。
ただしずっとこの場所にあったわけではなく物置かどこかにあったのが見つかったのだそうです。
水も元々は湧いていたそうですが今は枯れてしまったのだそうです。
創建当時のものはほとんどが(主にT氏によって)壊されたり処分されたのでなかなか残っていないため貴重なもののようです。
また長い間 豊臣家に対しての迫害とも思える状況が続き
廟所や豊国社には一切近づけず番人が居たこともあったそうです。
登拝料は100円です。
この拝殿?山門?を抜けると石段が始まります。
まだ誰も踏み入れてなかったので
通っていいものかちょっと迷いながら進みました。
しかし がに股だなぁ、、、(^_^)ゞ
さぁ489段(登拝券記載による)の始まりです。
思った以上にありそうだぞ (^_^;
途中 京都タワーが見えました。
山頂は木々が高く茂り景色はほとんど見えないと これも神職さんから聞いていたので
景色としてはこれくらいでしょうかね。
(カメラを持っているのを見て神職さんの方から「景色を期待されても、、、」と申し訳なさそうに教えてくれました)
最初の踊り場から見下ろす。結構登った。
神職さんに後から聞いたところによると
一定の段数ごとに踊り場が設けられているそうで
その数が61段(63段?)で秀吉公の享年と同じ段数とのことだったのですが
秀吉公の享年は62歳。あれ?聞き間違えたか?数え年?
と考えてたら61と聞いたのか63と聞いたのか分からなくなってしまいました。
さらに一定段ごとでなく最初61段で次から63段になるとの情報もある。
さらにさらに秀吉公の享年も資料によって異なる。。。
うーむ。いい情報得たと思ったのに、、、(^_^)
段は奥行きが長いのと短いのが交互に設置されています。
これが結構歩きやすかったです。
まだまだ登ります。
もうどっちを向いてるのか分かんない(^_^)ヽヽ
ちょっと広いところに出ました。
着いた?という思いとそれにしては早かったような?という思いが交錯しましたが
廟所には五輪塔があるという画像をあらかじめ見ていたので まだ着いていません。
最初の廟所はこのあたりだったということです。
明治になって廟所を再興するにあたり
元の廟所をあらためてみると秀吉公が納まっていると思われる壺が出てきて
開けてみると御所の方を向いて膝を抱えた姿の遺骨が出てきたという話です。
ただしこれも 遺骨は廟所創建時にすでに紛失していた
との話もありますので定かではありませんね。
門の向こうにも石段が見えてます。
どーん!
あとは一気に登るのね。
最後にこれですかぁ。。。
これも後から聞きましたが
ここから傾斜がきつくなります。
その角度は現在の建築基準ではおそらく許されない角度なのだそうです。
(神職さんが建築関係者から聞いた話)
確かにそれまでより しんどかった。
でももうすぐ山頂です。
こちらが廟所である五輪塔。
山頂からも木々の合間から街が見えました。
確かに眺望は良いとはいえないかもしれませんが
墓所ですからね。
巷の雑踏から逃れたこの地で広い空のもと 秀吉公はおねむりなんです。
何を想うか秀吉公。
園児達の登ったしるし。
ご苦労さん。今(2014年現在)は小学生になったかな。
素直に降りるのもなんとなく芸が無いと思ったので
事前に神職さんに どこかに抜ける山道がないか聞いてみました。
何らかの抜け道はあるようですが 散策道ではないし行けるかどうかも分からないようでした。
道らしきものがあれば進んでみようと北方面や東方面を試みたのですが
急すぎたり道がどこまであるか不明だったりしたので あきらめようかと思いました。
念のためgoogleマップを見てみると なんだか太閤坦まで戻れそうな道があるようにも見えたので
そちらを攻めてみることにしました。
ただし山頂から明確な道があるわけでもなく
ただひたすら木々の合間を縫って進みました。
・・・いや遭難するぞ (^_^)ゞ
それでもしばらく あっち行ったり こっち行ったりしてると
明確に人が通ったと思われる山道に出ました。
ふー。とりあえず安心。
ずいぶん長い時間に感じられましたが10分~15分くらいのさまよいでした。
この山道は廟所や石段を作る際に資材を運んだ道かもしれないとのことでした。
おぉ。文明があるぞー
駐車場の端から街が見渡せます。
街を見るだけなら山頂じゃなくてここから。
太閤さん好きでも歴史好きでもないのですが
何となく秀吉公に対して親しみというか
興味がわきました。
そういえば京都の人は秀吉好きの人が多いそうです。
ゆかりの地も多いですしね。
私も帰りに神職さんと話してて
最後にお守りを授与させられました。
もとい!授与させていただきました (^_^)
いや、いろいろお話しさせてもらったし これもご縁ですからね。
といいつつ気に入って早速カバンにつけてます (^_^)v
今年は黒田官兵衛つながりで参拝者が増えないかなぁ
ともおっしゃってました。
なんか不謹慎(^_^)
かつて阿弥陀ヶ峰が見えていたということで
調べてみたところ山頂に豊臣秀吉公の墓所があるということだった。
山頂までは石段で登るということで
ちょっと興味が沸いてきました。
阿弥陀ヶ峰へは七条通と東大路通の交差点(丁字路)から向かいます。
右に『智積院』。左に『妙法院門跡』があります。
(※Googleマップで指定できないため豊国廟の手前までです)
通称『女坂』と呼ばれる参道途中には京都女子大や付属校があるため ドキドキします
名前の由来は女子大でしょうが知恩院の男坂・女坂の「緩い方の坂」という意味とは違い それなりの坂です。
10分くらい登ると鳥居へ続く石段が見えてきます。
ここまででも結構歩きました。調べたら500mくらい。
途中『新日吉(いまひえ)神社』があり 参拝もしたのですが今回は割愛させていただきます。
バスの転回場にもなっています。
京都女子大行きのバス(プリンセスライン)があるのでバス利用も便利ですね。
女子率高くて車中はもっとドキドキしそうですが(^_^)
振り返ると街も見えます。
坂の傾斜もおおよそ分かります?
さて、それでは参りましょうか。
ここは太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれており
元々の豊国神社(豊国社)があった場所なのだそうです。
(現在の豊国神社はふもとの方にある)
参道横は駐車場になっています。
控えのバスも止まっています。
手水舎ですが
水はありません。
あとで神職さんに聞いたのですがこの つくばい は数少ない創建当時のものだということです。
ただしずっとこの場所にあったわけではなく物置かどこかにあったのが見つかったのだそうです。
水も元々は湧いていたそうですが今は枯れてしまったのだそうです。
創建当時のものはほとんどが(主にT氏によって)壊されたり処分されたのでなかなか残っていないため貴重なもののようです。
また長い間 豊臣家に対しての迫害とも思える状況が続き
廟所や豊国社には一切近づけず番人が居たこともあったそうです。
登拝料は100円です。
この拝殿?山門?を抜けると石段が始まります。
まだ誰も踏み入れてなかったので
通っていいものかちょっと迷いながら進みました。
しかし がに股だなぁ、、、(^_^)ゞ
さぁ489段(登拝券記載による)の始まりです。
思った以上にありそうだぞ (^_^;
途中 京都タワーが見えました。
山頂は木々が高く茂り景色はほとんど見えないと これも神職さんから聞いていたので
景色としてはこれくらいでしょうかね。
(カメラを持っているのを見て神職さんの方から「景色を期待されても、、、」と申し訳なさそうに教えてくれました)
最初の踊り場から見下ろす。結構登った。
神職さんに後から聞いたところによると
一定の段数ごとに踊り場が設けられているそうで
その数が61段(63段?)で秀吉公の享年と同じ段数とのことだったのですが
秀吉公の享年は62歳。あれ?聞き間違えたか?数え年?
と考えてたら61と聞いたのか63と聞いたのか分からなくなってしまいました。
さらに一定段ごとでなく最初61段で次から63段になるとの情報もある。
さらにさらに秀吉公の享年も資料によって異なる。。。
うーむ。いい情報得たと思ったのに、、、(^_^)
段は奥行きが長いのと短いのが交互に設置されています。
これが結構歩きやすかったです。
まだまだ登ります。
もうどっちを向いてるのか分かんない(^_^)ヽヽ
ちょっと広いところに出ました。
着いた?という思いとそれにしては早かったような?という思いが交錯しましたが
廟所には五輪塔があるという画像をあらかじめ見ていたので まだ着いていません。
最初の廟所はこのあたりだったということです。
明治になって廟所を再興するにあたり
元の廟所をあらためてみると秀吉公が納まっていると思われる壺が出てきて
開けてみると御所の方を向いて膝を抱えた姿の遺骨が出てきたという話です。
ただしこれも 遺骨は廟所創建時にすでに紛失していた
との話もありますので定かではありませんね。
門の向こうにも石段が見えてます。
どーん!
あとは一気に登るのね。
最後にこれですかぁ。。。
これも後から聞きましたが
ここから傾斜がきつくなります。
その角度は現在の建築基準ではおそらく許されない角度なのだそうです。
(神職さんが建築関係者から聞いた話)
確かにそれまでより しんどかった。
でももうすぐ山頂です。
こちらが廟所である五輪塔。
山頂からも木々の合間から街が見えました。
確かに眺望は良いとはいえないかもしれませんが
墓所ですからね。
巷の雑踏から逃れたこの地で広い空のもと 秀吉公はおねむりなんです。
何を想うか秀吉公。
園児達の登ったしるし。
ご苦労さん。今(2014年現在)は小学生になったかな。
素直に降りるのもなんとなく芸が無いと思ったので
事前に神職さんに どこかに抜ける山道がないか聞いてみました。
何らかの抜け道はあるようですが 散策道ではないし行けるかどうかも分からないようでした。
道らしきものがあれば進んでみようと北方面や東方面を試みたのですが
急すぎたり道がどこまであるか不明だったりしたので あきらめようかと思いました。
念のためgoogleマップを見てみると なんだか太閤坦まで戻れそうな道があるようにも見えたので
そちらを攻めてみることにしました。
ただし山頂から明確な道があるわけでもなく
ただひたすら木々の合間を縫って進みました。
・・・いや遭難するぞ (^_^)ゞ
それでもしばらく あっち行ったり こっち行ったりしてると
明確に人が通ったと思われる山道に出ました。
ふー。とりあえず安心。
ずいぶん長い時間に感じられましたが10分~15分くらいのさまよいでした。
この山道は廟所や石段を作る際に資材を運んだ道かもしれないとのことでした。
おぉ。文明があるぞー
駐車場の端から街が見渡せます。
街を見るだけなら山頂じゃなくてここから。
太閤さん好きでも歴史好きでもないのですが
何となく秀吉公に対して親しみというか
興味がわきました。
そういえば京都の人は秀吉好きの人が多いそうです。
ゆかりの地も多いですしね。
私も帰りに神職さんと話してて
最後にお守りを授与させられました。
もとい!授与させていただきました (^_^)
いや、いろいろお話しさせてもらったし これもご縁ですからね。
といいつつ気に入って早速カバンにつけてます (^_^)v
今年は黒田官兵衛つながりで参拝者が増えないかなぁ
ともおっしゃってました。
なんか不謹慎(^_^)
[豊国神社]|[方広寺・耳塚]
日本の国宝071 京都/豊国神社 建仁寺 泉涌寺 法性寺 東福寺 龍吟庵 (週刊朝日百科)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1998
- メディア: ムック
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